静岡新聞:時評

「スポーツは教育的な役割を果たす」といつことをよく耳にするが、本当だろうか。現在の状況を見る限り、「その役割は果たされていない」といつ印象を受ける。

以前からスポーツの教育的な役割は認知されているが、その効果が発揮されるのは、試合やトレーニングの際だけではなく、スポーツ活動以外の日常生活や引退後ではないかと思う。こういったことは、現在スーパースターとして称される選手たちを見ればわかるかもしれない。スーパースターといわれる選手たちのパフォーマンスはもちろん素晴らしい。一流プレーヤーとスーパースターを区分ける大きな違いは、知性や人格、社会性である。これはマーケティング的見地からも明確である。

しかし多くの競技スポーツの現状に目を向けると、ほとんどが競技力の向上ばかりに力を注ぎ、知性や人格、社会性を育むといった取り組みがおろそかになっている。「文武両道は難しい」といった社会的風潮もこつした傾向に拍車を掛けているように思われる。教育の場でも、「競技力が高ければ勉学はおろそかにしても」とか「態度や素行が悪くてもスポーツではすごいから」といった豪協を許す雰囲気がある。これでは、就学期間中のスポーツとしての機能を果たしているとは言い難いし、教育機関でスポーツを促進する意味も希薄になる。

競技力と資質磨こう

また、こつした傾向が選手の未来を厳しい状況に陥らせるという現実に対する認識も目くなっているのではないだろうか。現在のスポーツ界において、スーパースターは意図的に作り出されると言われている。つまり、トレーニング環境の整備と同様に、知性や人格、社会性を育む環境が必要であり、就学期間中はなおさらである。尊敬される知性や人格、そして社会性はスポーツ以外の場面でも重要な資質であるし、それによって選手としての時間が過ぎ去った後の生き方を大きく左右することは周知の事実だ。だからこそ、競技力と同時に、これらの資質を磨くことが重要である。

スポーツの文化的、社会的価値を高めるには、一部の者だけが優れているだけでは不十分である。スポーツに携わる全ての人間が、周囲から尊敬されるだけの人材になることを目指すべきだと思う。今一度、スポーツにおける教育ということを改めて考え真す時期ではないだろうか。